昭和44年07月06日 朝の御理解
御神訓 一 信心の心得
「真の道に入れば、第一に心の疑いの雲を払えよ。」
大変な事ですね私今日、とりわけこの信心の心得の中にどの1か条でも、信心さして頂く者の心得ばかりでございますけれども、やはり考えて見れば考えて見るほど難しい。そんな気が致しますね。考えて見れば考えて見るほど難しいもんだ。私今日、真の道に入ればとこう仰る。信心して真の道を教えて頂くね。お道の信心は信心をさしてもらうと、真の道をまず歩けと、今までの歩いてきた道は、いわゆる真と真の道とは似ても似つかんものであった。
そこで翻然として真の道を求めながら真の道を歩く。真の道を踏み行うての生活になって来る訳なんですね。しかもならこれが真の道だとこう教えられて、そのう入ってもですもう第一にです、心の疑いの雲を払えよとこう仰る。そりゃなかなか容易な事じゃない。第一にとこう。真の道に入って真の道を行じさしてもろうて、おかげを頂いて行く為には、先ず第一に疑がいの雲を払わなければならん。その疑いと言う事のまぁ言わば反対は、真実ということでしょうね。
しかもそれが確信と言うところにまでになってこなければならない。でここでは先ず先生が言われる事を信ずるわけ。神様がものを言うて下さるわけはないのですから、先生が言うて下さる事を、まぁ神様が言うて下さる事と先ず信じて。先生の言うて下さることを信ずる。先生はあぁ言うて下さるけど、先生はあぁ言いなさるけどもと、このけれどもが付く間はあの神様を信じていないのである。先生を信じていない。先生の言いなさるごたるわけにゃいかん。こう言う訳なんです。
けれどもそれをまぁ言わば半信半疑であっても、それをまぁ半分は疑い半分は信じると言う様な事であっても、やはりそこからですなんとはなしに、なるほど言われる通りにしたらこの様なおかげになって来たと言う、おかげを見せて下さる頂きますから、その半信半疑がだんだん、先生の言っておられる言われること、言われる通りにすりゃ間違えないとこう確信出来るようになる訳。
もう先生の仰る通りにしときゃいいんですよと。人にも言えれるようになる訳です。さぁところがその人にも言えれるようになっておる、その間違えないですよがどの程度の事かと。なって来ると又そこに疑問がね生まれて来るんですよ。私共が例えばこの信心の心得って沢山ございますね。この信心の心得っていうものが、その一つひとつをそうだそうだと信ずる。信心は家内に不和のなきが元なりと仰るから。本当に信心さして頂くなら先ず第一、家庭の中に不和のないおかげを頂く事が。
先ず本当だと思うてその事に一生懸命取り組む。これだけでも大変な事ですからねぇ。真に有り難しとはもう心すぐにむかえの初めなりと。だから真に有り難しを求めての信心と言うな事でも実に深遠なものです。有り難いようであってもね、それはお願いをしたおかげを頂いたから有り難いのであって、自分願うた事が反対にでもなるといっちょん有り難くなかごとなって来る。だから真に有り難いというのはです、どちらへ転んでも有り難い。願うた事が叶うても叶わなくても、御神意を悟らせてもろうて。
そこから有り難いと思わせて頂く心が真に有り難いのですから、これなんかでもなかなかどうして容易な事じゃないんですよね。神徳を受けよ。人徳を得よということになって来るともう、いよいよやはり難しい。神徳を受けよ人徳を得よと。生きたくば神徳を積みて長生きをせよと。和賀心で我が身を救い助けよと。我が身、和賀心で我が身を救い助けるれる程しの信心というのは、なかなかの事じゃない。まぁこう初めから読ませて頂いてとの一言でもです、大変な事なのですけれども。
その一つひとつがそう所ではないと、分かり信じさして貰えると言う所に、限りない信心の精進。それ一つひとつ確信させて貰えれると言う事。そこにいよいよ広い深い意味合いにおいてのおかげが、いわゆるおかげの展開ですね。これをいちいち読ませて頂くなら、この何十か条の信心の心得と言った様なものがです、どのひとつが自分のものになっておるだろうか。どのひとつを本当に信じておるだろうか。なら今日言う第一に疑いの雲を払えよと仰るが、どれ程確信をもってその御教えを信じておるであろうか。
信心は家内に不和のなきが元なりと、もう第一番に教えておられるのだけれども、それをそうだと信じていないところに、家庭の不和になる、円満になるということに、本気で努めていないじゃないか。このひとつだけでも、本気で努めさせてもろうてね、その家庭円満のおかげを、頂かして頂く為の修行ならば、どげなん修行でもいとわんと言うくらいにならせて頂いたら、このひとつだけでも、もうそりゃ素晴らしいおかげが、約束されるでしょうねぇ。
昨夜壮年会でございましたが、いつもの通りですけれども、もう本当に時間の経つのも忘れて、それぞれに素晴らしいお話を発表されました。その中に久留米の石井清さんが、もうこの人はまぁ大体、壮年部会にはだけには絶対出て来なさらん。まあ月のうち三回か四回、それも前を通りましたからとか、母親がお参りをするから送って来たとか。家内がお参りするので付いて来たとかと、いうぐらいにしかお参りしないんですけれども、実に見事なおかげをいつも、おかげの上に於いては頂いておると言う事ですよね。
どこにこの人がそのうおかげを受けていくそのう、元っていうのもがあるだろうかと。なかなかその、物の見方考え方なんかでも実に垢抜けしてるんですよね。昨日なんかは、お話の中ではなかったけれども、ちょっとした表現の中にですね、こういうことを言うんですよ。まぁその位の事はもう誰ぁれでんわかっちゃおろうけれども、というぐらいな意見合いで言う事がですね。悔やんじゃならんと。不平不足を言うちゃならんと。という話しが聞こえたら、それはもうおかげ頂く秘訣ですからねとこう言うんですよ。
もうその秘訣をもうちょいと自分で、がっちり頂いておるということですよ。皆さんでもどのくらい聞かれ、どのくらい知っておられるか分からんばってん、悔やみよるでしょうが。不足を言いよるでしょうが。もうそれをですねもう金輪際言いよらんですよ。清さんは。話しを聞いてみると。例えばですよもうね、悔やんだらおかげは頂かれんと、言うなら今日は確信しとるんです。もうおかげは付いちゃあこんけん。悔やんだら。それでもそれは悔やまにゃおられない話を聞くなら。
本当あんた一人で馬鹿んごたるね、と言うごたる中を通っとるけれども、それに対して全然不足を言わずにですね。例えて言うと兄弟二人であぁあした大きな仕事をしてる訳ですけども、弟の方はまぁ言うなら外交的は事を承っとる。もう一番苦しいところは清さんばかりね。もう普通で言うならば、こげん馬鹿は貧乏くじはないというところをですね、もうむしろそれを喜んどるんです。もうとにかくそしてそれを何気なく言うんですよ。もうおかげの秘訣だってこう言う。
信心頂いてそれこそ毎日日参り夜参りさせて頂いておって、教えを広い範囲で頂いておってもです、その一言すらが確信出来てないんだものね。悔やまんということはおかげを頂く秘訣だと確信しておるんです。皆さんこのひとつだけでもですね、確信して頂いたらおかげ頂くとですよ。清さんぐらいのおかげは。そう不平を言い不足を言い。えらい信心の巧者の事は言いよるけれども、それを確信してない。不足言うたり悔やんだりする事を、言うたらおかげはもう頂けんともう確信している。
もう不足を言わんということは、もうおかげの秘訣だと確信してるんです。もうこれはもう絶対の理ですからね。喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労はさせんと。教祖様は仰っておられるようにですね。それをお互いが毎日毎日お参りしよる、だから清さんに言わせると毎日毎日参って、参りよる人達の気持ちが知れんと言うてから笑う訳です。まぁ笑うて笑いはせんけれども、まぁ笑ったような気持ちじゃろうと思うんです。私話聞きよるとそんな感じられるです。
たったですねその事だけでもで言わばここで、今日はね真の道に入れば第一に心の疑いの雲を払えよと仰る。その御教えについて今日頂いておるわけです。不足を言うたらおかげにならんと確信するという、それはもうしかもおかげの頂く秘訣だと。それを秘訣であると信じて不足を言わんという事。その一言だけでもそれが本当だから、そこから言わばおかげを受けておる。
その秘訣をです例えばこの信心の心得の中にゃ、この全部がその秘訣なんですよ。ですから一つの事を確信してもその位なおかげを受けられておるからですね、三つ五つ十もそれを自分の物にし、自分がそこのところを確信出来たら、もういよいよいわゆる神徳を受け、言わば人徳を受けよとおっしゃるがね、人徳的おかげではなくてです、神徳のおかげ。いわゆる無尽蔵限りのない。そう言うおかげに繋がっていくんです。
昨夜壮年会のお話の中に、秋永先生がこう言う様なお話しをしておられました。先日も高橋さんと二人で話しましたと。こりゃとてもは福岡から日に三べんも参らにゃんなら、とても合楽の信心な難しゅうて堪えん。もう来年からどうでんこうでんいっちょ。こう昼の信行期間だけはいっちょ辞めるごたる、風じゃんのちゅうてからまぁ話したと。勿論笑い話です。そげん言うて二人共一生懸命参っておられる訳なんですけどね。
とてもあんた仕事する暇いっちょんなかよ。朝のご祈念に参って来るじゃろ、福岡からですよ。そして帰ってからもう昼にお参りする準備せんならん。さぁ会合だ月次祭だといやぁまた夜出てこんならん。こりゃもう信行期間ないっちょその信行、昼の信行期間だけはなんとかして辞めなでけん。と言うて話した程しに合楽の信心は難しいとこう言われる。昨日それぞれの体験発表聞かして頂きよっても、いやぁ本当にもう信心もそげん難しか。とてもとても合楽の信心は出来んと。
皆んなが言う筈だという程しのところを、例えば永瀬さんなんかはそこをもう有り難く有り難く、通っておられるところをあの発表しておられます。久富勇さんなんかは、そこんところを只もう只々、それをもう本当に修行と思うて、まぁ言うならばもうやっとかっとであるけれども、そこを通り貫いておると言う様なお話だった。だから勇さんそこんとをもう一押し、信心をひとつ本当のものにすると、そこんところが有り難くなって来る。まぁほんの際どいところに今おられるわけですね。
と言うてまぁその銘々のお話を聞かして頂きながらも、難しいなあ合楽の信心は難しい。かと言うてんなら清さん当たりのように、やっぱり合楽の信者に間違えないのだけれども、月には二回か三回か本気でお参りするのは、この五日の壮年部会だけこれもう絶対と言うていいぐらいに参ってくる。そして自分が一月の体験からですね、もう本当に一月一月、去年先月やった事と今月やった事とは違うような、言わば斬新なものをです、発表しておるです。ですからそう合楽の信心が難しいとだけは言えんでしょう。
清さんのような生き方でもやはり合楽の信心なのですから。ほうそりゃもう本当に、今度電話をまた二つ取りましたそうですが、とてもそりゃ神ながらなおかげを頂いて、向こうから買うてくれって言うて、ゴム、日商ゴムというゴムの、まぁ会社を経営しておる訳ですがね。ゴムはゴムかなんかって言う番号だそうですよ。56056って言うんだそうです。もう捜し求めたっちゃ出来ごたるその、ゴムゴムのいわば電話番号だって言うてから、昨日話聞かしていただきながら。
確かにそれがもう生活の上に一事が万事に、そう言うタイミングの良いおかげを受けておるという事なんですよこの人は。ですから合楽の信心もそげん難しいということだけではないでしょう。ただお参りをするという事が難しいと、まぁ言わば昨日は言っておる訳ですけれどもです。なるほど昨日ある方が毎日に日参してまいられます。親一人子一人。昨日も前の日にちょっと体の具合が悪かったけれども、それを押してお参りをしようと思うたら、息子さんがですね言われる事が、気違いって言われるんです。
本当に一生懸命のこうやってしかも10年近く毎日日参さして頂いてです、本当に何の為にお参りをしておるか。そりゃいろいろその願いというところはあろうけれども、親が子の事を願わんはずはない、それこそこの子の為にという、一心の祈りを持って、いわばお参りをしておるその息子から、気違いと言われるっていうことはなんていうことだと。もうそれこそ悲しゅうなった。もうお母さんあんたがそげな気違いのごたる信心するなら僕はもう仕事に行かんよ。ちゅうげな。
まぁそげな事は言いなさんな。なら今日は参らんけんでお仕事の方へ行ってくれんのって言うて、お仕事の方へやってから遅くから参ってきました。10時ごろ参って見えられました。そしてです御理解を頂いてです、昨日はね泥棒じゃと言われても、乞食じゃと言われてもという、あの御理解を頂いてもう本当に今朝から、もうそれこそ血の涙のでるような思いです親として。子供からです人から言われるならいいばってん、一番信じてくれる、お母さんあんたが信心しておってくれるけんでと。
喜んで貰わなければならない筈の息子から、あんた方気違い信心だ。気違いと悪口を言われののしられるということはです、もうこげん親として悲しい事はなか。私も悲しい事だと思うそれを聞いてから。で昨日の御理解を頂いて、本当に私の心を神様は見通しのように今、朝の御理解を頂いてと言うて、またそれから御理解を繰り返し頂だかれて、一時のご祈念まで頂いて帰られました。それけん〇〇さんあのもうあなたの信心はね、確かに気違い信心じゃんねって私が申しました。
もう例えばここで言うなら、人徳的なものだけを頂くというだけじゃなくて、神徳の所へもう突入しとる。信心とは和賀心が神に向かうのが信心と仰るが、もう神様へ向うていく事が信心なんだ。だから同じ気違いでもね気が違う、心が違うて行くと言う事は、もう人間心から神心へ飛躍しておる過程だ。だから笹をかたげるあの気違いとは違った意味においてのね、人間心から神心へ変わって行く為の気違いじゃけん、そりゃやっぱほんなこっちゃけん、むしろ有り難いとですたいねっちゅうて話した事でした。
やはり普通の人間から気違いに見えるんだと。夕べその久冨繁雄さんが発表しておられる中にもです、例えばこうして朝のご祈念を頂いて帰りましょうがのって言う訳ですよ。ふと畑の中を早道をして帰られると、もう村の人達は皆畑に出とるちゅう訳です。はぁ繁雄さん達は洋服どん着てからもう朝帰りしござる。とまぁ見て笑いよろとこう言う訳なんです。そして今度昼頃なると又洋服着替えてから、昼の部へ出て来ござる。はぁ又繁雄さん出て行きござると言うて、皆んあが言よろ言よろ見よろという感じです。
まぁそりゃ自分の心の中に思われる。まぁ言うなら気恥ずかしか。皆の者の手前んでんばってんまぁそうして、信心は続けておるけれどもと言う訳なんです。本当やっぱりちょっとやっぱぼうけござるばいとしか思われんのですものね。冬の間はええっち暗い内に朝帰るとじゃけん。ところがもう今頃はあぁこうなっとるもんじゃから、もう皆んな畑へ出ておるっちゅう。隣近所の人達が。そこん中をこうやって単車で洋服どん着てから、ほう繁雄さんなもう朝帰り今しござる。そして又昼出て行きよなさる。
これは人は知らんばってん、また晩も出て来ござると言う様なです、そういう信心を見てなるほど皆んながぼうけちゃるとしか言わん。私はそう思うねやはり。そう言う様な事を聞かせて頂いても、最後の締め括りのところに、段々おかげをもう本当に有り難い昨日は、夕べは共励会でしたが、まぁあ終わったのが十二時もう過ぎだったでしょうか。それも最後にご祈念をして、あの休ませて頂いたんですけど。
最後のご祈念をここでさして頂だく時に、ならその今日の壮年部会の事をお礼お届さして貰いよりましたらね、まぁ朝顔のようなもんですよね、つるのある。それがこの辺まではこう伸びて来る。それから先はその縋るものがないのでもう、こうこうぐるぐるじゅうじ回るようにしてですね、縋るところがないから実に重そうにしてるね。縋るところがないね。歌の文句にもあるでしょう。「朝顔は馬鹿な花だよ根もない竹、命までもと絡みつく」って言うんですよ。
今日例えば壮年部会で聞かせて頂いた一人一人のお話がですね、壮年部会にでも出てくる方達。だからこんな難しい話も出来るって言われるほどしの、難しい話が出ましたがです。皆んながそれぞれに重たいね。信心の悩み信心の難儀を感じておる。これ程信心するのにどうしてっていうことにもなっておる。信心の例えばその朝顔の蔓のようなものがです、ここまでは縋って来たけども、これから上はもう自然にどんどん信心が伸びるばかり、信心が分かって行くばかり。ところが縋るところがない。
こうなって来ると朝顔は馬鹿な花だよですよね。信心の為に恥ずかしい思いをしなければならない。信心をしとるけんで気兼ねをしなければならない。信心をしておるけんこげんなる。私昨夜も申しました事ですけれども、例えばね福岡なら福岡から三回参ったっちゃね、まぁだいくらか時間があろうがのっち。本をん気ちその事だけに掛ったら、まだ5辺でん参られるとよって私が申します。例えば甘木の平田さん当たりはその事ばっかりを言われるでしょうがて。
氏子の用、神の用を足しゃ氏子のには神が足してやる。もうこりゃ御神徳の世界なんだけれど、本当に氏子の用は神様が足して下さる事程しのところまで、おかげが頂けたら大変な事だと私は思うです。大変なおかげだと思うんです。そこんところを信、公、私とこう言われておられるですね。信心の信ということを一番にとる。次に公の事をとる、次に私的な事をとるんだと。信心はこの根性がなければだめだ。もうそれこを卓を叩かんばかりにして平田さんあたりはそれを。自分も行じておられる事であるから。
その事を皆んなにそう言われる訳ですけれども、で結局私的な事、その私的な信心でもいいんだと。教会のお役に立たんでも、神様のお喜び頂けるようなところには、触れていけんでもです、先程清さんの例を取ったようにね。信心の心得の中のたった一つ、しかもたった一つの事を確信してね、不足を言うという事をです、もう不足は言わんということはおかげの秘訣だと確信しておる。だからこれをもう、それこそ命のようにその事を大事にしておる。それが最近では身に付いてしもうたという感じなんです。
むしろぶの悪い仕事をもって来ると却って喜びよるちゅう。もう身に付いておる証拠なんです。いわゆるこれは公、信、公、私の一番私的な小さい信心でしょうけれどもです、その小さい信心でも、こう確信したらこうおかげが受けられるのが、金光様の信心なんです。けれどもですそれは結局人間の働きに、神様はちょっとおかげをまぁタイミングよう、おかげを下さるという程度にしか過ぎない。氏子の用は神が足してやると仰るほどしの事になってこない。そういうおかげを求め求めさして頂いての信心。
最愛の子供から気違いと言われても、隣近所の人達からほんにボケちゃござらんじゃろうかと言われても、そういう事が耳に入らんおかげ。そういう事が平気に慣わして頂けれる心。だからそういう事が耳に入っておる間は、まだ縋るところがなくてこう沢山のツルが頭重そうにして、どこに縋って良いやら分からん、という状態と同じ事がなんだと。それこそ人から馬鹿な花だよと笑われておる時。あぁおかげも頂ききらんとにそうにゃ参って参ってっち言うてから、近所のもんが笑いよる。
家ん中じゃいつもぶつがつ言いござる。仕事の事はいっちょんはかいきよらん。なるほどこれじゃあ人が笑うはずだ。けれどもそれでもですよね、そこをです信心の過程としてです、それが耳に入らんようにならして頂く位の信心おかげ。その馬鹿な花だと言われるその朝顔がです、本当縋るものを得てですね、そこから限りなくその信心が伸びて行くならばね、もう限りないおかげに繋がっていくであろうということ。氏子の用は神が足してやるという、言わば平田さんが言われるような、おかげになって来るだろう。
信第一主義で行くならば。だからそういう信心をさして頂いておるという事がね、信心の心得の一つ一つをです1か条だけでじゃない、一つ一つを自分のものにこなしていき、自分のものにしていけれる。そういう信心をさして頂いておるという事がです、神様も助かって下さり喜んで下さる事であり、私共も必ずおかげが受けられるんだ、安心のおかげが受けられるんだ、あの世にも持って行けれるこの世にも残しておける、神徳が頂けれるんだと確信するところからね。
周囲の例えばののしりも、笑い声も、平気どころが、もうそげんまで自分の信心な進んで行きよるということを、有り難い思わして頂けれるような、信心がそこから生まれてくる。そこで縋るものがないということは、どういうことかというと、そういう確信を持たずに、先生があげんいいなさるけん泣く泣く付いて行きよると、言った様な事ではね駄目だと。先生が言われる事を本当に確信して、それを本当に自分が確信して、その確信という縋り棒ですかね。ところにです例えば。
昨日もその事私は皆さんに話したんですけどです、私の修行中の時分にね、家族を挙げての信心であるけれども、私の余りもの信心です。いわゆる人がぼうけちゃござらんじゃろうかと、言う程しの信心を見たり聞いたり、目の前でしとるもんですから両親がですね、あんたも馬鹿じゃないのに商売をすれば一人前に出来るのに、商売はせずに神様神様と言うてね、なんとかあんたもいっちょ考えんかと、父から又母から言われる度に、もう私はもう心の底からもうどんこんされんごとおかしかったです。本当に。
もう先の事が分からんもんじゃけんあげな事ばっかり言いござる。さぁさぁご祈念ご祈念と言う様な事でした。そして又家族中の者が御祈念をさして頂いて、御理解の一つも頂くとまた家族中の者がです、あぁんならもう辛抱も明日頑張らして貰おうと言うて、その都度都度に頑張ってきました。そう言う事がですね、笑うたりそしたりしとる事が、実を言うたらおかしゅうして堪えん位に絶対のものを信じとった訳ですよ。確信。それに縋っていったわけです。私は。
なるほどこれをです、だから難しいと言う事で見たら、もうこげん難しい事はなか。けれどもですみやすいと言うたら、なら月に一回か二回かどんお参りさして頂いてね、金は二百円か三百円のお初穂をして、そしてあげなおかげを頂くなら、そういうおかげの頂けれるという事は、こげんみやすい事はないじゃないですか。ならこりゃ清さんが一番良か例ですよ。まだそういう人達がいくらもおります合楽には。ですから合楽の信心必ずしも難しいとは言えんのです。そんなにみやすいのです。
ならそういう事でも分からして頂いたのがやはり親先生なのです。清さんはいつもそれを言うんです。親先生あっての事だと。だから確信しておると言うところがですね、段々一言よりも二言、二言よりも三言と多くなって行く。それがですね、氏子の用足せば、神の用を足せば、氏子の用は神が足してやると仰る様なところをです、それを例えば昨日壮年部会に望んでおられた達なんかは、そういう御用に一生懸命当たっておられる方ですからね、そういう御用が出来ておるということをですね。
これが神様から又は十二分なお働きを受けさせて頂けれる、まぁそういう条件的なものもないでしょうけれどもですね、そうさして頂かなければおられないという信心が、そうさしておる訳ですけれども。けれどもそのおかげを頂くことだけはね、この生き方でいけばお徳を受けることだけは確信しての生き方。真の道に入れば第一に、心の疑いの雲を払え、雲を払えよね。合楽に御神縁を頂いたなね、本当に月に一回なら一回、だけどこじゃない。いっちょん参ってこんでもね。
例えば四国の方の方達は電話ですいつもお願い。それでもおかげを頂いておるのじゃから、合楽の信心ぐらいみやすい事はなかじゃない。そういう例えばみやすい信心から段々なら難しい信心に入らしてもらう。しかもその難しいということが、いよいよ真に有り難いに繋がる。そういう信心をですね、いよいよ身に付けて行くということがです、あの世にも持って行け、この世にも残しておけれるというほどしの、御神徳を受けて人徳を受けよとこう仰る。
真の道を行く人は肉眼をおいて、心眼を開けよと仰るようにですね、心眼を開かせて頂くための、信心修行であるとするならです、周囲の例えばね人の口には戸はたてられんとこう仰るのですからね、人が笑いよるとかそしりよる事位な事は、耳に入らんどこじゃない。それが言いよる人達がおかしゅうて堪えん位なです、おかげを頂く為にいよいよ確信を持って、その確信に縋って行く。その自分の確信しておるその事へ信心が縋って伸びていくと言う様なね。おかげを頂かして頂く事だと私は思うです。
第一に心の疑いの雲を払えよと。先ず第一に、心の疑いの雲を払わして頂く事をです、この信心の心得の沢山な御教えの中から一つひとつそれを、信じて疑わないだけのものにしていこう。たった一言だけであっても、家庭に不和のなきが元と仰る。その事だけでもね、不足を言うちゃおかげにならん。不足を言わん事はおかげを頂く秘訣だと。その事一つ信じさして頂いても、このようなおかげを受けておるという事実が、合楽にいくらもあるのですから。
そのささやかな確信でもそのくらいなおかげを受けられておるのであるからね、もっと広い範囲においての確信が出来、そこから信心が進められていったらね、いよいよ有り難い事に。なるほどあの人達が合楽合楽っち参りござったが、なるほど神様じゃなぁと。例えば、ここのお広前が出来る時に、信心のない人達がね笑っておった。けれども出来上がってしもうたら、なるほど神様じゃなぁと言うて、目を見張っておるようにです、そういうおかげを確信しての、信心にならして頂かないかんなぁと思うのでございます。
どうぞ。